「この先は破片が散らばっていて危ないから、歩いては行けないよ。こちらにおいで」
制服の裾を掴んで歩く子どもを制して、脇に手を差す。抱き上げた子どもは、あまりにも軽く、冷たかった。暗がりでも分かる金の髪も青い瞳も、あの頃——目的のために作られ、後継者として育成されていた、何も知らなかった頃の自分と酷似しているはずなのに。
おいで、といえば子どもは従順な態度を見せた。じっとしていなさい、と言い聞かせる必要がないということは、果たして喜ばしいことなのだろうか。大人に抱き上げられたことが一度も無かったのだろう。目を丸くして、身体を目一杯固くして、私にされるがまま。
……こんなにもおっかなびっくり、という言葉通りの仕草を知らずにいられた過去の私は、一般論としては恵まれていた、と言えるのだろうか。少なくとも、足を怪我しないように靴は与えられていた。冷たい廊下を歩くことはあの日まではなかった。ただ、私があの男を呪わない理由にはならなかっただけで。
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ちょこんと膝に座る小さな頭を撫でてやりながら、この先の予定を立てる。
まずは知り合いのいるプラントに渡る前、入港時に検疫がある。ザフトに所属している私は少ない項目で済むだろうが、この子は時間がかかるだろう。小さな子どもにとっても、大勢の大人たちにとっても、余所から異物を持ち込まれるわけにいくまい。最悪、宇宙港に数週間の滞在を命じられてしまう。地球出身だというカバーストーリーだけで、誤魔化し切るしかない。
名前と誕生日という、ひとが当たり前のように持つパーソナルデータを持たない子ども。苗字は私のもの、名前は適当に、しばらく対面していない者の名前から拝借。誕生日は、出会った日である数日前。適当にデータを整えてしまえば、人はだれかになれるものだ。名前のない子どもだって、誰かの器になることを強制された者だって。
続けて服装。着の身着のまま連れてきたから、格好はあの研究所で着せられていたガウンとズボンのままだ。子連れの言い訳に「地球に住んでいた遠縁の親戚、それもコーディネイターが身内の不幸で天涯孤独となってしまった」というシナリオを用意しているが、格好だけ見れば誘拐犯と思われてもおかしくないだろうし、このまま外に連れ出せない。そもそも服を着る、靴を履く、といったことを受け入れてもらえるものかもわからないのだ。「普通の子ども」と程遠い生活をしていたことは想像に難くない。
思考を中断させるように、小型艇のディスプレイが目的地が近いことを告げる。そろそろか。
「大丈夫だよ。入港するときに検疫は受けるだろうが、そのあたりは私がうまくやる。君は何も心配いらない」
用を済ませ、裸足で立つ姿を大判のブランケットで包んで隠す。足元だけではない。年齢にはそぐわないであろう身体の発達具合や、着替えさせていない薄手のガウンを人目につけないためでもある。
「君はじっとしているんだよ。私が対応するから」
何も行動しないよう念を押し、席に着かせる。管制官の声を聞きながら案内どおりに船を動かしている最中も、子どもはじっとしていたが、好奇心を刺激されたのか、港の内壁を見回しながらも、私達の会話を聞こうとしているようだ。
「何の話かわかったかな」
「うん。……ええと……」
「話し言葉よりも書き言葉の方が伝えやすいかい? ならばこれを使うといい。画面が切り替わったらもとに戻すから教えてくれ」
タブレット端末を渡す。スラスラと文字が打ち込まれ、単語は意味のある文章に変わる。それが複数行。幼い顔から一切の感情を見せず、淡々と滑らかな文章を組み立てていくその姿は、およそ子どものものとは言い難い。あらかた打ち終え、ざっと読み返して、これでいい、と判断したのだろう。「返します」という声は、入港許可の前に聞こえた。
タブレットを受け取り、ざっと表示された内容を確かめる。船はどこに運んでほしい、搭載物、人数、どこから来たのか。どこへ行くのか。聞こえてきた内容とおおよそ一致している。良くできたね、という当たり障りのない言葉は、このくらい当然だろう、と気にもとめない様子の子どもに届いてくれただろうか。
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入場検査は何事もなく進む。せいぜいが子どもの服装に対する違和感だったが、それは「迎えに行ったところで戦闘に巻き込まれ、脱出を最優先にした。結果こんな服装のまま連れ出してしまったがこれから整えてやるつもりだ」というストーリーでどうにか納得してもらえた。子どもが一言も話さないことが、恐怖心から口を閉ざしている、と判断されたことも納得される一助となったのだろう。
免疫の獲得——今後のワクチンの摂取は一度病院で抗体の検査をしてからがいい、ということで流される。それまで一週間ほど港の宿泊施設に滞在して様子を見ること、申告したプラント、地域以外には出向かないことを厳命されたが、こちらも問題はない。もとより最低限は必要な食事や生活品の用意を除けば、ギルバートの元にしか出向かないつもりだ。
「検査項目は以上となります。今後については改めて資料を送付しますのでご確認ください。宿泊施設は角を曲がった先に案内板があるので、そちらをご覧ください。手続きはあちらの担当になりますので」
職員の定型文で、審査は終了した。子どもの軽い身体を抱え直し、キャリーケースを引いて歩く。その道中で洋服店を見かけたことは幸いだった。こんな服装のまま——実験のためでしか無いものを身に付けたままでずっと過ごさせるわけにはいかない。ひとまず今日、明日に着せるための服を売り場から探し、商品をカゴに入れていく。柱に貼られた数センチ刻みで線の入ったポスターに頼りながらどうにか必要なものを買い、奥の施設へと向かう。その間、子どもは何色が好きだとか、何を着てみたいとか、そういうことを一つも口に出さなかった。
宿泊先では、子連れということがあってか、広い部屋に通された。オプションに幼児向けのバスローブやシャワー室用の椅子、クッキーやチョコレート、キャンディの包み。一人では考えが回らなかっただろうから、スタッフの配慮がありがたい。食事は部屋に運ぶように頼んだから、この子もほんの僅かな時間だとしても落ち着けるだろう。
「こういったものは食べたことがあるかい」
私は手のひらに用意されていた菓子を乗せて子どもに見せる。研究所での食生活など知る由もないが、この中からなら食べさせるものを選ぶとしたら、ほとんど砂糖の塊のような飴玉だろう。子どもはじっと見てから、首を振った。
「こっちのは、見たこと、ある」
「おや、本当かい」
「いつも、食べてたのに似てる」
……なるほど。食べたことがあるのか。研究所は想像よりも融通の効く場所だったらしい。夕食後に食べよう、と私が提案したところ、子どもは首を傾げた。その先の言葉はなかなか続かないようで、備え付けのメモ用紙を見つけてサラサラと余白を埋めていく。台紙から切り離した紙切れを見て、私は絶句した。
「これは、今までに君が食べてきたものよりもずっと甘くて美味しいものだよ。……大丈夫だ。これから一つ一つ、知っていけることだから」
子どもは、おおよそ一般的に必要とされるであろうものについて、なにも知らず、与えられたこともない存在だった。
夕食のメニューの一覧は知らないものだらけであるどころか、食べ物だという認識をしていない。食事は手で掴める軍用の非常食ばかり、ナイフとフォークは見たことがない。ふかふかのベッドも、足の裏が冷たくならない床も知らない。その代わりに詰め込まれたのは、年齢に似つかわしくない数々の知識と想像力。ただ存在し、利用されるだけの日々。
ナチュラルだろうとコーディネイターだろうと、人はどこまでも愚かで傲慢になれるという証明。
ただの子どもに背負わせるには、あまりにも冷たくて思い現実が立ちふさがる。あの場所で、なにも知らないまま消費されるのと、外に出て、世界を知ること。一体どちらがこの子にとっての幸せなのだろうか。
子どもは美味しいかどうか、というものはまだ理解できないようで一口噛むごとに不思議そうな表情を浮かべたものの、注文したハムとレタスのサンドイッチは問題なく食べられた。砂糖で甘くした紅茶は、水のほうがいい、と私に返されたが、自分の意見を伝えられる、というだけでも十分だろう。問題は自分用に淹れる味付けではないから、私もそれがすこぶる苦手だ、というだけで。
「甘いものは苦手かな。ええと、さっきの飲み物のような味がするんだが」
子どもは首を傾げて、私を見上げた。部屋に到着したとき見せたいくつかの菓子の包み。ただ見せただけでは、何もわからないままだ。
「食べてみたい? ……そうか、口を開けてごらん」
あ、と開いた小さな口に、つまんだ小さな飴玉を入れる。コロコロと口の中で数度転がしたあと、鏡の前であ、と口を開けて、なくならない球体を不思議がっていた。味のよしあしは判断できないようだが、そうして行動に移した、ということは、嫌いだと思うようなものではない、ということだろう。
夜になり、子どもは時計を気にしだした。長針は一周し、短針は八を差す頃。
「どうかしたかい」
聞いてみる。いつもならばシャワーを浴びる時間が、二十時ちょうどだという。それならば、その習慣通りに行動させるべきだろう。どのみち今日できることはもう無いに等しい。
一人でできる、と言うがその言葉には頷けなかった。もちろん環境さえ整っていれば、その言葉通り身体や髪を洗えるだろう。シャワーの温度調整も、水量の調整も。しかし備え付けのバスタブは乗り越えさせるには大きいし、シャワーコックやボディソープは手の届く場所にはない。幸い、子どもは物わかりがよかった。大人は必要なときにしか手を貸さないこと、そのかわりにできない、と感じたことは教えること。バスタブのカーテン越しに待機していること。
過保護だろう、と思いはしたが、大人が子どもに手を貸すことを当然として設計されている設備を使うのだから、受け入れてもらわなければならない。
研究所からずっと着せっぱなしだったガウンと下着がカーテン越しに渡される。
「あの、お湯、もういらない」
「うん、わかったよ。上手にできて偉かったね。タオルを渡すから、少し開けるよ」
はい、と声が返ってきた。カーテンの端を捲り、バスタオルを手渡す。その時に見えた身体は、私のものと同一ではない。
あの男のクローン、あるいはそれに準ずる存在ならば、肉体は同一だろう。それを裏切り嘲笑うかのような眼の前の現実。思考がついていかない。
人はその身に巣食う欲望をいつまで溜め込み、なにに吐き捨てていけば満足するというのか。
気がついたときには、身体を拭き終えて待ちぼうけを食らった少女が、声をあげている。
「……すまない。このままでは身体が冷えてしまうね。そこで着替えても濡れるだろうからこちらに着てほしいんだが、構わないかい」
返事の声は、数十分前よりも固い。
浴室を出た子どもはまっすぐメモ用紙に向かう。今度は正確性よりも早さを重視したのか、言葉の組み立てや字の書き方が、ほんの少し乱れている。
なにか気分を悪くするようなことをしてしまったのか。なにか失敗して、それを怒っているのか。白い紙には、そんな文字が浮かんでいる。
そのようなこと、どうして君に思うというのか。
この感情を、渦巻く何もかもを、どのようにして伝えろというのか。
障りのない言葉を選択するのは容易だろうか。しかしそれは、私たちに待つ運命の先送りでしかない。そして、そのときは、今よりももっと先、未来でなくてはならないはずだ。
「……きみのせいではないんだ。ただ、どうしようもなく、虚しくなってしまったんだよ」