アカデミーの休暇は、大きいものが2つある。一つは夏季休暇、もう一つはクリスマスイブが近付くと始まる冬季休暇だ。レイは寮で年を越すシンに見送られ、久しぶりに帰ってきた。
ギルバートとは三ヶ月ほど対面していない。今回の休みだって、忙しい合間を縫うようにして時間を作ったのだろう。レイにはその事が嬉しいし、たったの数十分でもいいから、かつてのように過ごせるのではないかと、期待していた。
それなのに、あまりにも呆気なく飛ばされた。
リビングのソファのそばに立つギルバートは表議会議員に支給される制服姿であったから、どうにか時間を作って抜けてきたことを伺わせた。かけているのは、赤みの強い桃色の髪の女性だった。大戦後に姿をくらませたラクス・クラインだろうか? しかし、今さら何をしに来たというのだろう。
レイの戸惑いをよそに、ギルバートは「おかえり」と少年の帰りに笑みを浮かべ、来訪者に気がついた女性はすっと立ち上がると、
「今日からお世話になります。ええっと……、ミーア。ミーア・キャンベルです!」
ハキハキと名乗り(知られてもいい、という判断だろうが、本名をいきなり明かすのはいかがなものか、とレイは思う)、頭を下げるその人物は、顔のつくりこそラクスに寄せているが、はつらつとした言動はラクス・クラインには程遠い。レイも挨拶を返したが、どうして顔を会わせているのかわからなくなっていた。
「ギル、彼女はいったい……」
「説明をせず済まなかった。君には、ミーアの先生を頼みたいんだ」
どういうことだ? レイの疑問は、そのまま口に出ていたらしい。ギルバートが苦笑し、説明した。
目の前の女性は、ラクス・クラインの替え玉であるらしい。ヤキン・ドゥーエで大戦が終結して以来、歌姫は雲隠れし、プラントを覆う悲しみを癒す存在だった彼女に頼らない道を、市民たちは模索している最中だ。しかし、ラクス・クラインの持つカリスマ性は今なお健在で、いつか再び、必要とするときが来るかもしれない。もちろん一人の歌姫を頼らなくとも済むように、プラントと地球が共存できる道筋があればいいが、血のバレンタインに端を発する戦禍は、双方に深く突き刺さったトゲのようなものだ。いつ火蓋が切られてもおかしくない緊張状態が、再び訪れてもおかしくない。ミーアは、そうなったときの保険である、と。
「地球との関係は、そんなに悪化しているのですか」
「可能性の話だよ。いざというときのために、抑止力になるものが無いというのは、不安だからね」
ギルバートを二人で見送って、レイは彼に手渡されたスケジュールの書かれた表を見ている。
ミーアがラクスの代わりを務めるにあたって、問題は山積みだ。ミーアは、ごくごく普通の家庭で育ったから、礼法はほとんど知らない。ずっと足を揃えている習慣もなく、言葉遣いも丁寧ではあるものの、上品だとは評価できない。
「レイさん、わたしは何をしたらいいのかしら」
ただ目の前の彼女の目は決意に燃えている。堂々と、プラントの歌姫になってみせるとレイに訴えかけているのだ。自らのすべてを捧げてまげ成し遂げたいと思えるほど、彼女に価値はないのかもしれないのに。
「あなたの話を聞きたい」
ミーアは、身だしなみを整えて、改めてレイと向き合った。ウィッグに隠されていた手入れのされた艶やかな黒髪に、白のニットと紺色のロングスカートという、はっきり言うなら地味な格好だった。彼女の本来の姿を知らないレイにさえ、目の前にある華やかな顔立ちとの落差が気になったほど。
「本当にこれでいいの?」
「ええ、今は二人きりです。それに本格的なレッスンは来月になってからでしょう? 私にできるのは現状を把握して最低限の作法を身に付けていただく位ですし」
ミーアがぱっと背筋を伸ばした。しかし全身に力が入っていて、自然な振る舞いとは程遠かった。まずは姿勢を身体に覚えさせるところからのスタートだろうか。
初日のレッスンは、邸宅の案内と二人が滞在する二週間の間の決まりごとの確認から始まった。といっても、レイにとってはギルバートの使う部屋に近付かないことのみを呑んでくれればよかった。家事は二人で分担することとし、必要なものの購入はネットスーパーを使うことに決めた。
「レイさん、案内ありがとう。……あの、話ってどういうことかしら」
「呼び捨てで構いませんよ。あなた個人のお話を聞きたいんです。家族のことや、なぜこの役割を受け入れたのか、といったことを」
黒髪の少女は、レイからの質問に戸惑いを隠せない様子だった。ミーアは、これからラクスとして生きていく。ミーア自身は不要となり、はじめから居なかったことになるのに。
「聞いてどうするの」
「いずれ、あなたが偽物であると告発するときに切り札として使えるかと」
「……ひどいのね」
「そうでしょうか。少なくとも、あなたが馬脚をあらわすことがなければ、私は黙っていますよ。それに、あなたがあの歌姫になったところで、あなた自身が消え去ることなどありえません」
ミーアは、聞かれたことのおおよそはレイに伝えた。あなたはどう、と質問を返せば応えてくれるから、話しやすかったのだと思う。アカデミーでの生活やギルバートとの関係についても、レイは教えられる部分なら、と明かした。
「そういえばレイ、あなたはピアノが弾けるのよね。音楽について詳しいの?」
お互いの趣味に話が及んだときに、ミーアが尋ねた。
「あなたが期待するような実力ではありませんよ。簡単な曲なら弾けますが」
「ラクスさんの曲、レイにも弾ける?」
詳しく聞けば、ラクスの代表曲のようなゆったりしたリズムよりもアップテンポの楽曲の方が歌いやすいという。なるほど、歌姫の身代わりになるにはあまりにも致命的な弱点だ。
「なるべく、練習しておきたいの」
「これからあなたの物になる楽曲です。そのような表現はしないでください」
「……そうよね。ラクスさんなら、こんなこと言わないわ」
「練習時間をいただけますか? 明日までには弾けるようにしますので」
「むしろ、私の方からお願いします」
すっかり日の傾く時間帯になっていたし、初日から詰め込む必要はないだろう。二人で過ごす時間は、もうすぐ終わろうとしている。
「そうだレイ。ずっと敬語じゃなくてもいいんじゃない? しばらく一緒に過ごすんだし、お互い遠慮しない方がいいと思うわ」
「……いいんですか? ラクスさん相手に」
「この見た目の時くらい、ミーアでいさせて」
彼女には不似合いな眉を下げた微笑。浮かぶ感情は、自分と同じように誰かを演じると決めた者への同情か、それでも自分とはまるで違う存在への羨望か。
「それなら遠慮せずに指摘するが、会話の最中に身を乗り出しすぎるな。傾聴姿勢は大切だが、常にラクス・クラインを念頭に置くこと。それと、もっとボキャブラリーを増やすのと、政治家の娘としての教養がいる。姿勢もいいが、人前に出るときは足を揃えて……」
「わーっ! ストップ、ストップ! いっぺんには言わないでっ!」