目が覚めると、右手小指に赤い毛糸が結ばれていた。寝る前には当然なかったものなので、就寝中にやられたのだろう。こんなことをする人物は、一人しか考えられない。
 糸に触ってみる。肌触りのいい素材だ。何に使うつもりで買ったのか、問いただす必要はあるだろうか。正直、このためだけに用意したと思いたくない。
 レイは右手をかざしてひとまずどうするのか考えた。彼女のなかに結び目をほどく、という選択は無かった。一度ほどいて、身支度をできても毛糸を小指に結ぶのを片手でできるとは思えないし、犯人はこれを勝手にほどいた事になにか言うかもしれない。でも、このままでは、
「……着替えられないじゃないか」
 思いの外弾んだ声がでたことに彼女自身が驚き左手を口に当てる。数年前ならくだらないと(今も少しそう思っている)一蹴するような行動を、仕方がないなと受け入れている事実から目を反らせなかった。遠い昔に赤は恋人同士の色だと、育ててくれた人に教わった。この糸の延びる先にいるのは、二人を結ぶ色をした瞳の青年しかいない。
 ため息を一つこぼすと、ベッドから出る。糸は部屋の外へ延びていた。寝間着に利用中のルームウェア姿ではさすがに体を冷やしそうで、椅子にかけていたフリースを羽織った。よし、これで寒くない。上履きを履いて、ドアノブに手をかけた。

 プラントは常に一定の環境を保つように整備されているが、それでは日常の変化を望む精神によろしくない。そのため殆どの居住プラントは四季の変化を再現するし、作り物の空から雨が降ったりする。今日は冬の冷え込みの再現らしい。寒いのが苦手な彼女としては、一刻も早く過ぎ去ってほしい時期だが、こたつでみかんを食べることこそ至高であると主張する恋人を眺めるゆったりとした時間は好きなので、内心複雑だ。現住居にこたつは存在しないが、リビングの食卓テーブルがこたつテーブルに変えられる日は遠くないのかもしれない。


 恋人のいるだろう居間からは情報番組のキャスターの声がする。早起きするとは珍しいこともあるものだ、と目を丸くしながら黒髪の青年に声をかけた。
「シン、おはよう」
「おはよ、レイ」
 恋人――シンは毎日の習慣のハグをしようと椅子から立ち上がり腕を広げる。レイは無意識に彼の右手か左手の一点にあると思っていたものを探して、
「…………っ!」
 言葉を失ってしまう。望んでいたものはそこにあった。おそらく、半分程度は条件を満たしている。自力で結べなかったのか、彼の小指にぐるぐる巻きにされて太くなった赤。その先に毛糸玉。まだどこかに延ばすつもりか。
「シン」
「?」
 レイは指輪を外して踵を返した。彼女にしては乱雑な動作だ。
「着替えてくるからそのままで待ってて」


「レイの小指にも、糸は結ばれているんだよ。普段から見えてしまってはいろんな人のが絡まってしまうから、見えないようになっているんだ」
「ギルにもあるの?」
「さあ、どうだろう? レイの好きな人とレイの糸は、結ばれているといいね」
「わたしとギルの間にはないの? ラウも仲間はずれにするの、かわいそうだよ」
「赤い糸で結ばれるのは二人だけなんだ。きみが大きくなって私でもラウでもない誰かに出会ったら、レイにもわかるようになるよ」

 デュランダルは、レイに様々なことを教えていた。礼儀作法は使用人たちに、勉学は雇った家庭教師に任せきりだったから、彼なりにレイに教えられることを考えた結果だったのだろう。その一つが恋の話だった。


 シンがいたずらで結んだ毛糸であっても、糸端はお互いの小指にあるべきで、そこから先どこにも延ばされていてはいけない。どうやら自分は想像以上に嫉妬深く独占欲も強いらしい。
 私にとってのたった一人がシンであるように、シンにとってのたった一人が、私であればいいのに。そこにいるのはギルじゃない、ステラじゃない、ラウじゃない、ルナマリアじゃない……私がいい。


 過去から戻り着替えを手早く済ませたレイは、再度シンの居るリビングへと向かわず、洗顔等を済ませた。少しくらい待たせたっていいだろう。朝食はもうあるのだし。いつもより念入りに髪を梳かしてから、それほど離れていない恋人のもとへと向かう。
 シンはちょうど紅茶の用意をしていたところだった。シンはコーヒー党だから無理に付き合うことはない、と思うこともあるが、二人そろっている時には紅茶を用意してくれるので、レイは何も言わずに好意に甘えることにしている。お互い忙しい日はインスタントとパック入りのものを使うから。

「レイ、あのさ、さっきの……」
「今から結んでも邪魔だと思うが」
「…………そうだよな」

 
 朝食後、食器洗いまでをきっちり済ませてから、レイはシンの前に座った。無言で右手を差し出すと、シンもなにも言わずに手を取る。一度手の甲にキスをされて、いわく「ハグできなかった分」の埋め合わせを受けとる。あとで私もしないとな、と思いながら小指を彩る指輪を見た。
 シンがにんまり笑って見てくることに気づくまで、視線は結び目に釘付けで、慌てて顔を反らすと「顔真っ赤。かわいい」と言われた。どうしろと言うんだ、まったく。

 火照りが落ち着いてからレイはシンの隣に移った。座ったままでもできるだろ、とシンの顔に書いていたので、それを打ち消すために彼の額にキスをした。お前だって真っ赤じゃないか、ざまあみろ。


 二人を結ぶ赤は、これご飯支度に邪魔すぎる、と冷静な指摘がどちらともなく入るまで結ばれたままだ。誰にも見えないというもう一つの方は、きっと、ずっと前からつながっている。