あなたもいらっしゃい、と議長に寄り添う女性が言った。泣き崩れる金髪の子どもは、微笑む女性の元へとふらつきながら向かおうとする。どうしたらいいのかわからないから、示された道を歩こうとする。
 おそらくクルーゼと同じ存在の彼を、彼個人として、受け入れてくれるらしい人が、そばにいる。彼にとっては、それも幸せなのかもしれない。けれど、
「待って」
 ほんの数歩で追い付いて、腕を掴む。これでいいはずないんだ。こんな風になんて、あっていいはずがない。
「君は、どうしたい?」
 濡れた瞳が、こちらを向いた。
「君の思いは、君のものだよ。だから、君がどうするか決めなくちゃダメだ」
「あなた、何を言って――」
 少年はどちらも振り払えずに、こちらを向いたまま、震えている。彼に撃たれた議長は、なにも言わない。ただ微笑んで横たわっているだけだ。……議長の態度を、都合のいいように捉えてもいいのなら、僕は。
「行こう、僕と一緒に」
 手に少しだけ力を込めて、彼を引っ張る。彼は僅かに反応して、僕に捕まれている腕と、座っている二人を見比べようとした。しかし、崩落した天井がそれを遮る。もう時間がない。



 呆然とした彼を連れて、ひたすら要塞を走った。幸い格納庫近辺は無重力空間となっていたので、浮いた瓦礫を避けるのと、後ろの彼にぶつけないように進むことだけ注意すれば、フリーダムまではすぐだった。
「さ、ここに座って」
 真っ青な顔色の彼は頷きも返事も返せないようだったけれど、そう言ってから座らせて、ベルトで固定する。ただ動かすだけなら、立ったままでもどうにかなる。
 脱出後間もなく、メサイアは崩壊した。



 これからどうしようか。月面に不時着したミネルバを見ながら考えている。AAと交戦していた艦だから無事では済まないだろうとは思っていたが、こうまでなっているとは想像していなかった。ここに来るまでに「ギルをたすけにいく」と手足をじたばたさせて喚いていた彼は、落ち着いたのか、それとも何かしようとする気が起きないからか、じっとしている。
 僕には彼女がいたし、ラクスがいたけれど、彼にはそういう相手はいるのだろうか。もし誰かがいたとしても、すぐには連れていけそうにないけれど。
 彼を連れていく候補があとはナスカ級のどれかとエターナル、アークエンジェル。消去法で行き先は決まった。ザフト艦はミネルバクルーを載せている艦を見つけるのが難しいし、敵対していた僕達の言うことを聞いてもらうのは難しいかも。エターナルにはアスランとメイリンがいる。
「アークエンジェルに行くけど、いいかな」
 予想通り、返答はなかった。



 マリューさんの許可を得て、着艦する。怪我人を連れていると報告すると、医務室に準備をさせると言ってくれた。本当に優しい人だ。
 シートベルトを外し、彼の手を取ってコックピットから出る。僕がここに来ると思わないからだろう――また誰かを拾ったのか、と言いたいのかもしれない――整備士が一斉に僕らの方を見る。マードックさんが何か言って、視線が一斉に散らばった。
「おいで。医務室はこっち」
 格納庫を出てすぐの部屋が目的の場所だ。



 彼は、指示通りにスーツを脱いで椅子にかけた。聞かれたことに反応はしても、声は聞けなかったけれど。
 検査中にスーツの中身も勝手に漁らせてもらって、内ポケットからザフトで使われているIDカードと、薬の入ったケースを取り出す。レイ・ザ・バレル。それが彼の名前。

 先生いわく、安静にしていれば回復するとのことで、ほっとする。ザフトということはコーディネイターなのだし、とも付け加えられたので、僕は苦笑を浮かべて内心に渦巻いたものを誤魔化すしかなかった。僕も彼も、ただ人間として見られたら良かったのに。


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 勝手に連れだして、ごめんね。レイにそう言うと、彼は面食らったようで、わずかに目を見開いた。
「これから君がどうなるか、確かなことは言えないけど……ザフトの艦に移送できるかマリューさんたちと相談するよ。それじゃあ、ゆっくり休んで」
 クルーゼと同じ存在の――僕が生まれる前から研究されて、不必要とされた――レイに、かけられる言葉は、かなり少ないだろう。まして、議長を撃って、ザフトではなくオーブ軍に属した艦にいる状況だ。僕には確かなことは分からないけれど、議長のことを慕っていた様子だった。今は、彼にも僕にも、休んで、それからこれからの事を考える時間が要る。


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 結局僕は、あれから二日ほど空けてレイに会いに来た。食事や着替えの用意はミリィが色々してくれたようで、「彼、あいつよりおとなしいしおはようって言ったら返してくれるしお礼も言ってくれるのよ」と食堂で話してくれた。彼女たちの関係は円滑に築かれているようで、少し安心できたから。
 一緒に昼食をとる、という口実を用意して、僕は二人ぶんの食事を持ち医務室のドアを開けた。ベッドに座るレイは、僕を見て小さく頭を下げた。雑談しようにも話題が見つからないので、お互いに黙ったまま食事を済ませてから、本題に入った。
「これから色んなことを聞くけど、嫌なら答えなくてもいいし、嫌だって思ったら言って。あと、軍とは関係ないから、機密なら言わなくてもいい」
 少し長い前置きに、レイはこくりと頷いた。
「君の事を知ってる人、僕以外にいる?」
「…………出生のことだったらシンには、一度だけ話しました。おそらく、もうすぐ俺が死ぬんだな、程度の理解だと思いますが」
 レイは僕の質問に、そう答えた。シン、というのは、アスランが心配していたミネルバの後輩だろう。彼の口調は、感情を込めることなく、ただ事実を述べているだけのように聞こえた。議長以外に、彼のテロメアのことや、服用する薬のことを知っている人がいればいいと思ったが、早くもあてが外れてしまう。
 だが、その声に引っ掛かるものがある。自分の死をとっくに覚悟していたかのような口ぶりだ。悲しみも怒りもまるで初めからなかったかのように。
「……そう遠くないうちに亡くなるって、君は議長からそう聞いたの?」
「明言はされませんでしたが、過ごした環境がラウとは違うので、それが影響するだろう、とは聞かされていました。それに、あの時は……あなたとムウ・ラ・フラガを倒して、姿を消すのが最善だと思っていたので」
 議長に触れてもなお、レイの表情はぴくりともしなかった。僕の前でだからかたくなに無表情を維持しようとしているのか、あるいは別の理由か。わからないが、自分が消えてなくなることに疑問を持たない彼の生き方は、悲しい。
「君はそれで良かったの? 君が生き残るより、僕を道連れにして、議長の世界が実現する方がいい?」
 彼にとって僕は……あるいは僕と、彼の言うムウさんの二人は、クルーゼの仇で、彼の狂気の一端ともいえる存在だろう。議長の言う欲望のない世界には、僕や彼のような子どもが生み出されない世界、ということも含まれているから、議長の世界を否定する僕に敵意を向けていたのだろうし。僕もろとも消えてなくなるのが、彼にとっての理想だったのではないか。
 そうして組み立てた予想の一部は、レイの一言で崩された。
「たぶん、あの時まではそう思っていました。ギルの理想以外に、信じられるものは無かったので」
 レイは、わずかに顔をうつむけて続ける。
「戦争の起きない世界、俺やラウ、連合の強化人間、それから、シンのような――誰かの目的の為だけに利用される存在のいない世界、誰もが命の危険にさらされたり、脅かされたりすることのない、そんな世界を、ギルは作ってくれるのだと。……でもそれは、きっと違っていたんです。ギルは、ザフトの艦を巻き込んでまで、あなたたちを討とうとした。ザフトの正義を信じていた彼らに撃たれる理由はないのに、ギルがそうしたことが、俺には納得できなくて、いつかラウと同じく消えるのなら、ギルのために命を使いたかったのに、俺はそれすらできなかった」
 レイの吐露に、僕は一切口を挟めなかった。きっと彼は、議長の言葉だけが真実だと思い込んでいただけだったところに、疑念を抱いてしまったんだ。誰かの犠牲の上で成り立つ、欲望の消え去った理想像に。
「……辛いことばかり話させて、ごめん」
「あなたが謝罪するほどのことではないと思いますが?」
「それでも、謝るよ。嫌ならやめてって言ったのに、こっちから君を止めるようなことしてないし、レイに聞いてばかりだったし」
 これ以上ここにいても疲れさせるだけだろう。僕は食器を重ねて、立ち上がる。結構長居してしまったから、返却が遅い、と起こられるかもしれない。
「僕はもう行くよ。何か聞きたいことはある?」
「……どうして、助けたんですか?」
 発せられたのは、さっきまでの感情のこもらない声ではなかった。
「目の前で助けられないのは、もう嫌だったから。それが理由だよ」