おとなり、いいですか?
 レストランのテラス席、一番窓際の席までやってきた軍主は、従者や部下に尋ねる口調としては、礼を尽くしすぎている。敬語じゃなくても構わない、とたびたび伝えているが、その要望はクラウスさんの方が年上だから、とかわされ続けている。
「あ、セイ。ここにいたんだね。クラウスさん、こんにちは」
「こんにちは、ナナミさん。セイ殿に用事でしたか?」
 入り口からひょこりと顔を見せた彼女は、セイを見つけるとぱっと満面の笑みを浮かべる。今日の抜けるような青空とぽかぽかした陽射しに負けない暖かさを、家族にまっすぐに向けている。
「アップルちゃんが、編成のことで相談があるから、セイの都合の良いときに来てほしいって。それから、フリックさんが稽古をつけてくれるのと、ヨシノさんからの伝言と……」
 きょうだい、というよりはメッセンジャーに任命されていたらしいナナミがおしゃべりしているところで、クラウスは手伝いの娘に頼み、茶器を一揃えと茶菓子を持ってきてもらう。二人の声を聞いていると、どうしてか故郷が懐かしく思える。ハイランドは少女が運ぶ陽気とは裏腹に、冷たい空っ風の吹くことが多い土地だった。熱いお茶が恋しくなるほど。
 クラウスが郷愁と共に茶壺の中身を茶海(きちんとした道具は揃っていないので、大きめの茶壺を拝借した)に注ぐと、懐かしいね、とナナミは笑っていて、セイも幼い顔できょうだいに同意していた。
「懐かしいですか?」
「はい。クラウスさんがハイランドの人だってわかるから、なんだか……」
「たぶん、嬉しいんだよね。こっちに来てから、たいへんでキャロの街のこととか、思い出す暇もなかったもんね」


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 セイがクラウスの部屋を訪ねたのは、小さな茶会から数日経った雨の日の夜だった。トラン共和国との同盟を結び、帰ってきたセイはシュウへの報告を済ませて来たというので、追い返す理由はない。
 クラウスは入室を促し、セイを座らせた。自身よりも二つ三つは年少の彼に失礼があってはならない。振る舞い一つとっても隙を見せてしまえば、悪評はクラウスより立場が上の彼らに降りかかるのだ。
 当初よりはましになったものの、やはりハイランド軍の中心にいたクラウスには常に警戒心が向けられていた。敵に情報を流しているのでは、セイの懐深くに潜り込み、寝首を掻こうとしているのでは。そういった疑念そのものは誰もが持ちうるものだ。事実、ハイランド軍では新参のジョウイに対し、クラウスは同種の不満を抱いていた。もっとも、ジョウイはグリンヒル侵攻という手柄をもって疑いを晴らしたが。
「ごめんなさい、急に。仕事はもういいんですか?」
 セイは文机に積み重なった紙を目に留めたのだろう。散乱している、とまではいかないが、確かにこれでは仕事中に見られてしまうだろう。
「あれは、どれもシュウ殿の承認待ちなのでお構い無く。セイ殿は、どういった用件で?」
「……クラウスさんと、話がしたくて」

 そう話して縮こまった軍主のために、副軍師は酒場に足を運んだ。星が瞬くこの時間帯には、ハイ・ヨーはとっくに店を閉めている。そのため夜の酒場にレストランで使いきれない食材で作った夜食や酒のつまみを提供している。運が良ければ、菓子等も融通してもらえるのだ。
「あらクラウス。お父上の迎えかしら」
 女主人が揃えた指で示したテーブルには、すっかり出来上がった父と、猛将キバの武勇伝に聞き入っている聴衆で溢れていた。別件で訪ねているので今日のところは問題ないが、毎日この調子では堪らない。ため息を飲み込んで、「いえ、ホットミルクを二ついただけませんか?」とレオナに注文を伝えた。
 ミルクパンが火にかけながら、レオナはクスリと笑う。
「こんな夜中に逢い引きかい? おとなしい子だと思ってたけど、案外大胆なんだね」
「なっ……! 違います! そういうのではなく、ただ、お互いリラックスして話し合えたらと……!」
 はいはい、そういうことにしとこう。レオナは狼狽えるクラウスを転がしながら、サービスではちみつと砂糖をいれてやった。普段の澄ました顔より、少し赤くなっている表情の方が可愛いげがあるじゃないか。
「ほら。冷めないうちに持っていきな」


「おかえりなさい、クラウスさん。わざわざありがとうございます」
「いいんですよ、これくらい」
 ほかほかのミルクを一口飲んだセイは、いつもより甘い! と驚嘆した。彼の感じたとおり、レオナは自分をからかうつもりで、甘い飲み物を作ったのだろう。クラウスさん、どうやって注文したの? 純粋な問いにごまかした答えを伝えるわけにはいかず、クラウスはカウンターでのやり取りを白状した。
「ナナミがいたら、レオナさんの勘違いが本当になっちゃう。……でも、もしかしたらナナミもクラウスさんと話すかもね。あなたといるのは、落ち着くから」
 今夜の少年はいつもよりおしゃべりだった。誰かに聞いてもらいたい気分だったのだろう。クラウスは聞き役に徹する。
「トランに行ってから、よく考えるんです。本当にぼくがリーダーでいいのかって」
「……それは、ハイランドの生まれだから?」
「キャロの街で育ったので、それもあるかも。……でも、どこで、というよりも、ぼくらがゲンカクじいちゃんのもらわれっ子だから。ゲンカクじいちゃんの名前とこの紋章があるから、リーダーの立場にいるけれど、シュウさんとか、フリックさんとか……もっと相応しい人がいると思うんです」
「……なるほど」
「トランにいた人たちにはこんなこと言えないし、ナナミにも、たぶんもう気づいてるけど、できれば知られたくないし」

 彼は、出口の見えない迷路に入り込み、道に迷ってしまっているのだろう。自分自身の在り方、なんて、迷わないわけがないのに。偉大な養い親を持ち、彼と同じ紋章を継承していることが、セイを惑わせるのなら、その心情に寄り添えるのは、きっと私だけなのだろう。口にはしなかったが、セイ殿は、キバ将軍の息子である私を頼りに来たのは明白だった。

「セイ殿。私から申し上げられることは少ないですが、これだけは覚えていてください。」
 クラウスは、セイの瞳を見つめる。まっすぐに、他者を信じている、まだ少年の純粋さを残しているセイを、そのまま表すかのような澄んだ茶色を。
「私は、あなただから、同盟軍に仕えているのですよ。この地の平和と安寧を、信じ抜いて闘うセイ殿の力になりたいのです」
「でもぼくは、何もできていないんです。グリンヒルも、ロックアックスも、制圧された……」
「ですが、ルカ・ブライトを討てば、すべてが終わります」
 クラウスの言葉は力強い。戦力差は埋められなくとも、こちらには策と結束があるのだ。勝てるかどうかは天に任せるしかないが、勝てぬ戦ではない、シュウの判断をクラウスも指示していた。その要が、軍主セイにあることも。
「同盟軍では、あなたを信じている方が集まっていますが、それ以上に、あなたを支えたいと思っている方が多いのかもしれませんね」
「どういうことですか?」
「人の上にたつには、人を惹き付ける魅力がなくてはいけないのです。トランの英雄のようなカリスマ性や、ビクトール殿のような他者を巻き込む力。あるいは、あなたの持つ、この人の力になりたい、と思わせるもの。……話しすぎてしまいましたね。そろそろお開きとしましょうか」
 クラウスは文机に置いた砂時計を見た。半刻ほどで滑り落ちる砂はとっくに堆積して、ひっくり返されるその時を待っている。セイも気がついたのだろう。驚きと申し訳なさの混じった控えめな、あ、の音がこぼれていた。
「長居しちゃってごめんなさい」
「お気になさらず。……さて、私は酒場に寄りますので、セイ殿はまっすぐお戻り下さい」
 盆を持ち退室を促せば、セイは素直に言うことを聞いた。手のふさがったクラウスの代わりに扉を閉めて、階段を昇る……、とクラウスは思っていたが、すぐに足音は返ってきた。
「クラウスさん、今日の事、誰にも言わないでもらえますか」
「ええ、言いませんとも。夜にこっそりホットミルクを飲んでいるなんて言いふらして、子供たちに恨まれるわけにはいきません」
「……そっか、それもそうだ。今度こそ戻ります。クラウスさん、おやすみなさい」
 ぺこっと会釈をして、セイは自室に戻っていく。遠ざかる静かな音にしばし聞き入った青年は、この静寂とは真反対の喧騒へと一歩を踏み出す。どうか、自身の逢い引き疑惑が酒の肴にされてませんように。