松葉杖を手放してから一月が経つころ、主治医にそろそろ運動してみようか、と言われた。運動ーーサッカーができるように、というのはすぐにはいかない。まずはすっかり減りきった筋力や持久力をのんびり戻すこと、ボールを蹴るとき思いきりやらないこと、しんどくなったら周囲を頼ること。他にも生活する上での注意点。
佐久間は帝国サッカー部の面々が驚くほど忠実に医者からの言いつけを守っていた。帝国学園は広いから、歩くだけでも疲れてボールを蹴る体力なんて残っていない、と自虐的に言ったこともある。
佐久間の歩く姿を見慣れたころ、彼は部室にきれいなサッカーボールを持ち込んだ。深緑色のネットに入ったそれは、サッカー部の面々が小遣いを出しあって買った、限定品だった。メッセージもサインもなく、小さな棚に置かれていたボールを、佐久間は大事に扱っている。ちなみに源田にも同じボールを贈ったが、彼のものはロッカールームに飾られた。
佐久間はそのボールをドリブルしながらエンドラインの一列をゆっくり進んで、それが終わると体力づくりをしないと、と言って外へ出てしまう。姿が見えないと心配ではあるものの、そこまで干渉は出来ないし、ウォームアップに誘ってみても、相手にならないぞ、とかわされてしまう。解決策が浮かばないまま、頭を悩ませていた。
一方の佐久間もまた、頭を悩ませていた。曇り空の土曜日、彼はリハビリの経過報告と検査のため、二週間おきに病院を訪れている。すぐ帰る気になれずに中庭のベンチに座ってぼんやりしていると、少し遠くが賑やかになりだした。きゃあきゃあ言いながら、子どもたちが遊んでいるのだろう。しばらくたって、子どもが一人、となりに座った。
「お兄ちゃん、サッカーするの?」
子どもの目は、カバンの横についたサッカーボールに釘付けだった。明るい髪色の子どもは、つけているマスクはサッカーボールのプリント、靴にもカバンにも。佐久間は「今は、お休み中なんだ」と答えをぼかした。子どもは、たいちゃんもいっしょ、と言って、膝を抱えた。
「たいちゃんね、いっぱいあそんだらね、ぎゅうってなっちゃうの。だからね、げんきになったら、いっぱいサッカーするんだ」
そっか、佐久間は子どもの話に相づちを打つ。無邪気にサッカーしたい、と言える小さな子が、羨ましかった。
「ねえお兄ちゃん、お兄ちゃんもサッカーやるんでしょ? たいちゃんにおしえて!」
まんまるの目をキラキラさせて、たいちゃんは佐久間を見つめた。そうだなあ、の前置きをして、答えを探す。
「まずは、ありがとう、ごめんなさい、すごい、が言えること」
「たいちゃん、もうできるもん」
「そっか。えらいなあ。……でもこれはな、とっても大切なんだ。サッカーって、みんなで一緒に一つのボールを使うだろう? だから、いいパスを貰ったらありがとうだし、誰かにぶつかって、怪我をさせたらごめんなさいだ。仲間がいいプレーをしたら、すごいって言う」
うんうん、と熱心に話を聞いてくれた子どもに、佐久間は別れを切り出した。遠くで遊んでいた子どもたちの声がしなくなったということは、そろそろ戻らなくてはいけない時間なのだろう。
いろいろありがとう! と手を振って病室に向かう背中を見送って、佐久間はため息をついた。さっきの話の内容が、するどいくちばしとなって佐久間に刺さる。
佐久間は、最後のすごい、を言えずに、仲間に嫉妬したし、裏切られたとさえ思っていた。
その結果、自分は本物の裏切り者となった。鬼道もまだ帝国にいた時の約束を、1号は使わない、封印するという約束を破った。染岡に怪我をさせて、きっとみんなを失望させて。
太陽がどんどん傾いて、影が伸びていく。そろそろ帰らないと、母が心配するだろうな。
「……こんなところにいたのかよ」
佐久間の目の前に、辺見が立っていた。息の上がった様子の彼は、携帯電話で誰かに連絡をして、さっさと帰るぞ、と歩き出した。
「おばさん、心配してたぞ。あと俺らもスッゲー心配した。俺らはともかく、おばさんに心配かけんなよ」
「……ゴメン」
「謝る相手が違うだろ」
「…………でも、おれ、」
ぴたり、佐久間の足が止まる。辺見は近付かない。佐久間の口からは結局なにも出てこなくて、辺見が彼に歩み寄った。
「そんなに言いたいことがあるなら、明後日のミーティングで話せ。いいな。」
「う、うん。わかった」
「放課後すぐだからな。俺たちだって、お前たちに言いたいことがたくさんあるんだからな。サボんなよ?」
ばしん。佐久間の背中を叩いて、辺見がまた先に行く。2つの影が、一緒に伸びた。