フリオニールがクラウドに傷跡を晒したのは、ずいぶん前の事になる。
「クラウドには、隠し事をしたくないんだ」
後ろ向いててくれ。そう言ったのに了承したのを最後に、二人きりの天幕の中、お互い無言の時間が流れた。
衣ずれののち、たぶん畳んで地面に置いた瞬間に立ったのだろう小さな音がした。それから十数秒の静寂を経て「もういいよ」と振り向くことを許される。毎日のお早うお休み、今日は何をしようか。そういった世間話と変わらない調子の声で。
誰にも見られたくない、と着替えや水浴びは勿論、怪我の治療さえ一人で済ませていたフリオニール。本当に、見てしまってもいいのだろうか。仲間思いの彼が誰も踏み込ませなかった領域に、土足で入り込むような。
「クラウド」
名前を呼ばれた。いつもと変わらない声色で。どうした?と答えてしまいそうになるほど、二人に浸透した日常のかたち。振り向いたら、どうなってしまうんだろうな。お前ははとっくに覚悟を決めてしまっている。そこにクラウドの意思やこれからの行動など存在しない。俺は、どう思うか、何をするのか、自分のことなのに何一つ分からない。
深呼吸をして、振り返る。結わえた髪を前に垂らして、背を向けた彼の背は、わずかだが確かに、震えていた。
体をびっしりと埋め尽くす古傷、所々で変色したりケロイド状となった肌。向こう傷も、きっと、背中と同様なのだろう。一際目立つのは背中の右側には羽ばたく鳥のような形の真っ赤な跡。そこだけはまるで何かに守られているかのように、上から付けられた跡がなく、その周辺に傷が集中している。
フリオニールのかくしたがっていた全てが、あらわにされた。
「クラウド、背中の傷、どんな感じだ?」
「右側の一ヵ所だけ、肩甲骨の辺り、新しい傷が一つも付いていない…………どこもかしこもこんなになって…………それなのに……」
「やっぱり、この世界でもそうか」
フリオニールの声からようやく、感情を読み取れた。彼にとって、痛々しい鳥は忌むべきもののようだった。こんな傷、知らなかった。この世界で行動を共にした期間は長かった。共に人々が花を見て笑顔になれる、そんな日常を共に夢見た。それなのに、俺は知らず、フリオニールは今の今まで隠していた。
痛くないのか。苦しくないのか。それを俺に打ち明けないのは、俺が頼りなかったからか。俺の口からは悲嘆だとか怒りだとか、身勝手な負の感情がない交ぜになって零れ落ちるのに、フリオニールは淡々と事実だけを受け止める。いくつも這い上がる感情はうねって、大きな纏まりとなり事実、喉元まで込み上げたがその言葉は、音声にならず、呼吸と混じって放出された。音もなく振り返った彼の琥珀の瞳は、わずかに揺れて、薄い膜を張っている。
異世界に召喚されて、秩序と混沌の闘争に巻き込まれて。もしかすると、通常の理の外にあるこの世界に、期待したのだろうか。誰かが跡を消してくれることを。どうしたって確かめられない位置の、誰かに見られることを嫌悪するその傷を、クラウドに見せたのは、フリオニールなりに、信頼を寄せてくれているのだろうか。
「背中を見せたのは、クラウドで二人目なんだ」
背中を隠すように包帯を巻き直しながら、フリオニールは訥々と語り出す。
「二人?それはこっちに来てからか?」
「ああ、クラウドが――というよりは、まだ俺とウォーリアしか召喚されてない時に、彼に見せたよ。
あの時は元の世界の事なんて一つも覚えてなくて、のばらがそばにあった理由も分からなくて…………今はその話をする場合じゃないよな。俺の腕、傷だらけだろう?だから、自分で見えない背中だけ、状態を確認してもらった。さっきのクラウドとだいたいおんなじ事を言われたよ」
フリオニールは言葉を切る。彼の傷はすでに腕以外隠された。それでも、彼に刻まれた呪いは、クラウドの腹の底に沈む怒りはいまも存在している。
「一度はウォーリアに見せた傷を、俺に見せた理由は?…………答えたくないなら、そうしてくれて構わない」
聞かないのか、傷の事。聞いたら俺が黙っていられないだろうからな。短いやりとりの後、答えが返ってくる。
「一度見られているし、セフィロスと交戦した事を知っているウォーリアが適任だった。でも、あの人には、見られたくない。あの人は、俺たちを導く光のような存在で、いつだって正しい。…………だから、こんなもの、もう見せられない。何も覚えてなかったあの時とは違う。
クラウドに見せたのは、消去法っていうのもあるけど……クラウドは、何も知らないだろうから。俺を裁くことは無いし、こんなものを付けられた俺を見ても、今まで通りいてくれると思ったんだ」
「俺が、お前より年長で、お互いの常識がほとんど通用しないからか」
「……それが大きい。クラウドに見せたやつは、俺の世界じゃ烙印で、他にも刑罰とか、そういうことに使われるけど、そっちはそんな事無いだろう?
それに、クラウドが、俺と一緒に夢を見てくれるから。俺は平和な世界をつくりたい、のばらの咲く景色が見たい。だから、この傷の事も……気にしないでいる事はできないけれど、クラウドが気にしないでいてくれたら、」
クラウドは腕を広げて、フリオニールを閉じ込める。もう俺は知ってしまったんだ。気にしないでいてくれたら?そんなの不可能だ。できるわけがない。お前が抱える苦しみを寄越してくれたら、俺はその時はじめてお前の願いを受け入れるさ。服の上から傷跡をなぞっても、フリオニールは何も言わない。拘束から抜け出すことも押し倒すこともなく、両手は手持ちぶさたになったまま。
フリオニールがたった一言でも、苦しいとか辛いとか、痛かったとか怖かったとか、言ってくれたなら。フリオニールの受けた痛みの全てを体感できたなら。それが叶ったとしても、フリオニールのこれまでの人生を追体験することも、帝国に植え付けられた恐怖や復讐心等の全てはフリオニールのもので、決して俺と共有するものではない。たとえそれが、砂粒のような、目に見えないほど小さいひとかけらでも。
その夜。クラウドは、服の上からもう一度彼の肌に指を這わせた。フリオニールは静かな寝息を立てている。武器に手を伸ばすことも、気配に起き出してクラウドを足蹴にすることもない。それが警戒を解いているからなのか心身の疲労が休息を強制しているのか、クラウドには分からなかったが。眠れるのなら、それでいい。戦いのことを忘れられるのは眠りに落ちた時だけだろう。
起こさぬようにそっと毛布をかけ直して手を離してしまえば、彼の穏やかな眠りは守られる。その思いとは裏腹に彼に触れるのが止められない。クラウドが何度も背中をなぞっても、フリオニールは目覚めなかった。狸寝入りを疑ったが、一定のリズムで聞こえる寝息と僅かな身動ぎは、睡眠中のものだろう。
彼のからだに刻まれたのは大小様々な傷跡。その一部が明らかな致命傷。足は分からないが、露出させている腕と、背中が特に酷かった。一生消えないだろう戦争の記憶、呪いと言っても過言ではないそれに手のひらを置いた。クラウドの知らないフリオニールの時間が、痛みが、記憶が、様々な後悔や怒りや絶望が刻み込まれている気がして。側にいたら、守ってやれただろうか。こんなにも酷い傷を負わせることが無かっただろうか。
――考えたって仕方ないことがある、クラウドはそれを理解している。しかし、敵にやられたものにしろ仲間を助けたものにしろ、その傷が彼の語る夢や真っ直ぐな信念ごと切りつけたように思えて腹の底から暗い感情が吹き出すのだ。冷静に己の感情を整理してようやく気付いた。俺には、この怒りを向ける相手がいない。正確には一人、彼の宿敵がいるが、彼の感情は彼だけが持つもので、奪われてきたものの復讐は、彼の手で遂げられるべきだ。そこにクラウド・ストライフは存在しない。
たとえ、そうだとしても。俺は、フリオニールの夢を、誰かのために戦える強さを誇りに思うし、俺だけがこの世界でフリオニールの秘めた苦しみをいやすことができる、と信じていたい。同じ夢を見たから。同じ感情を少なからず共有しているから。下らない感傷と自己満足だと思われたって、この思考は止められない、クラウドは確信している。