レイが入院した。この一言で俺が心配になったり肝を冷やしたりするのを、レイはあまり理解してくれない。身だしなみとかには口煩いし体調管理もしっかりしろっていつも俺に言ってたくせに。
年末の忙しい時期だった。老化現象を誤魔化しながらザフトに残るのもそろそろ限界だから、退役することにした、と悲しそうに笑みを浮かべて、レイは言った。俺と同い年のはずの親友の目元には、皺が刻まれていた。……目元だけじゃなくて、マフラーと手袋で隠した部分も、ごまかせなくなったんだ、と直感する。ザフトの制服は首を隠してくれるデザインだけど、それはもう鎧として機能しないんだ。レイは、俺と流れる時間の早さが違っているのは知っているけれども、こんなに早く目の当たりにするなんて、思ってもみなかった。
すでにパイロットをやめて製薬会社に就職した俺と違って、レイはしばらくザフトに残っていた。デュランダルさん(議長、と呼べないことにまだ抵抗がある)のために、平和な世界の実現のために、と彼が亡くなっても軍に留まっていたレイの軍人生活が終わる。アカデミー講師の誘いも断ったらしい。教えるのが上手だし、レイの説明は分かりやすかったから、講師にならない、というのは、勿体ないことのように思えた。月に行くと言うから理由を聞いたら、「ギルの知り合いがいるから、一度診てもらおうと思っている」と返ってくる。呆れた。もっと自分の体を労ってやるべきだ。そうしたら、マフラーはともかく、手袋は脱いでいたかもしれないのに。
……でも、それを聞けて少し安心した。レイの身体のことは誰にでも気軽に話せることではないし、俺がどうこうできる問題ではないから。
それから三ヶ月ほど、連絡がなくて心配していたら「検査入院する」と、たった一文のメッセージを寄越された。数日はとにかく仕事を終わらせることしか考えられず、休みをもぎ取って、コペルニクス行きのシャトルに乗った。事前予約席じゃないから割高だった。そんなのどうでも良くて、とにかく早く顔を見て、ぶん殴ってやりたかった。
月についたのは現地時間で早朝だった。面会の時間は遠く、朝から開いている店も少ないから、一人で時間を潰すしかない。手土産でも探そうと開店している花屋に足を運んだ。生花よりも、造花や加工して長持ちさせているのが多い。
桜が見頃だからその花びらを渡しなさいと、笑顔を向けられた。
「大事な人に渡すんだろ。女の子かい?」
「……これから会いに行くの、男ですよ。見舞いです」
そうかい、と店主は言った。それから、やっぱり店の花で何か見繕うか、とも。病院に行くのに、散らされてしまった花弁は確かに向いてないのかもしれない。
「気を使わなくても結構です。検査入院って話だから、きっとピンピンしてますよ」
俺が慌てて言うと、店主の顔に笑顔が戻る。
「今度は恋人と二人で観光にでも来なさいな」
それには苦笑するしかない。俺は結局、小さな箱に詰まったブリザードフラワーを購入する。レイの一人暮らしはさっぱり想像がつかなかったが、きっとミネルバ時代と一緒で、必要最低限のものしか持たない生活をしているはずだ。その姿は簡単に思い浮かべることが出来るから、ずっと手元に残るものを選んだ。
花屋で教えられた公園には見頃を迎えた桜並木があった。一斉に咲いて、散った花がピンク色の絨毯になる、と評判のスポットらしい。どおりで、家族連れやカップルが多いわけだ。羨ましい。…俺はひとり公園の端で、風に吹かれた花びらを手のひらで受け止めて、貰ったビニール袋に入れていく。一枚が小さくて薄いから、一杯になるには時間がかかりそうだ。
オーブよりも北に位置するニホンでは、梅や桜の花が咲くことで春が始まる。いつかみんなで観に行きたいな。古めの時代劇の放送を見ていた父がそう言って、笑みを浮かべたことを覚えている。桜、家族連れ、春。連想させるだけの要素は揃っていた。
アスカ家はもともと先祖がニホンに住んでいた、という事情があることで、オーブに移住してからも、俺にとってはニホンは身近に感じられていた。地名は神話や古典にあやかったものが多いし、武将たちの軍紀物語や、刀を使う戦いは少年の目にはかっこ良く映っていたのだ。妹はそれよりもドレスを着た姫とか、剣と魔法のファンタジーを好んでいたから、本の趣味は全く合わなかったけれど。
桜がきれいだというのは映像で見て知っていたが家族旅行は秋の深まった頃に行くのが主だったから、紅葉の方が思い浮かべることが容易だ。小さな桃色の花弁は、プラントで初めて目にすることとなったが、その景色がどんなだったか思い出せない。ただ、家族で見たかったと思ったことだけが鮮明だった。
こんなに昔を思い出しても穏やかな気持ちでいられるのは、戦争が終わってひとまずは平和になったからだろうか?
半分ほど貯まった頃に、通り掛かった兄妹を見て、父の言葉を反芻する。みんなで桜を観たい。
たくさん褒めてくれたし同じ数だけ叱り飛ばしたと思う両親、大好きで、大切で、きっと桜の花を見たら大はしゃぎしたマユ……生きていたら、どんな感想を持っただろう。シンのなかで、三人の時間はちっとも動かない。
悲しい瞬間よりも、暖かい日々に意識を向けることができるようになった。そのぶん、家族のことを思い浮かべることが減っていく。これが、前を向く、ということなのだろうか。いつか、父さんも母さんもマユもステラも、ハイネのことも、クルーのみんな、レイだって。その対象にするということなのだろうか。そう考えると、まだ目的の半分も達していないのに、今すぐレイのところに帰りたくなった。……レイは病院で入院中で、俺は見舞いのためにそこに向かうから、こう思うのはおかしいけれど、そうとしか言えない。ただ、俺の知っているレイ・ザ・バレルに、名前を呼んで欲しくなった。
案内されたのは殺風景な病室だった。クリーム色の壁と二段の収納、テレビと電子端末以外、ほとんど白で埋められている。
白い枕に散らばった金髪が、顔のつくりが、あの日苦しんでいた彼と違う。変わらないのは、空色の瞳がこっちを向いていることだ。
「…………シン?」
「うん、シンだよ、レイ。久しぶり」
「久しぶり、シン」
俺を見て、名前を呼んで、呼ばれて目を細めて笑ってくれる。たったそれだけのやりとりが、まだ許されている。
殴ってやるとか文句の二つ三つとか、そんなものはどこかに吹き飛んでいた。……直前までそう思っていても、絶対にできない。
「具合どうだ? 苦しいところは?」
「何ともない。心配性は変わらないな」
誰がそうさせているんだ、誰が。あの時死ぬつもりで、とにかくレイにどんな理由があろうと、寿命が短いとか大事な人のために戦いたいとか、あのタイミングで俺に打ち明けておいて!
しつこく聞いてみたが、本当に何もないらしい。不定期で発作が起こるし寿命は一切変わらないと説明された。……だいぶ暈した言い方だった。
「コーヒー飲むか? 缶ので悪いが、そこの冷蔵庫にある」
まったく俺の気持ちを察してくれない(あるいは気付かないフリでやり過ごしたいらしい)親友は、俺を歓迎するセリフを言う。その気遣いを突っぱねるわけにはいかないから、冷蔵庫を開ける。ブラックの缶コーヒーが数個並んでいた。
「レイは?」
「お前と同じものを。それしか入ってないんだ」
小さなテーブルに二人ぶんの缶を並べた。シンはカバンから袋を出す。タイミングを失ってしまいそうだった土産は、見事に空間に色を添えてくれた。
「綺麗だな」
「丁度見頃だって教わって。入院いつまでか聞いてなかったし、綺麗だったし、花見の気分だけでもって――」
がさり。シワの寄った手が袋の中の薄ピンクを掬って、胸の高さ辺りで手のひらを返す。はらりと舞い降りていく花びらを追いかけるようにして、何度か繰り返していた。見た目はかけ離れてしまったけれど、内面は俺と同じで、少し子どもっぽさが残されているのかもしれない。
実はもう一つあるんだ、と切り出すのはスマートじゃないよな。小さな箱は収納棚の上に静かに置いた。細かいことによく気が付くから、病室の小さな変化にはそのうち気付いてくれるだろう。
「レイ、来年は入院なんかするなよ。今日はこんなだけどさ、次は一緒に公園行こうよ」
「そうだな、咲いてるところを俺も見てみたい。……しかしシン、そういう言葉はルナマリアに言うべきだと思う」
ひとしきりレイがはしゃぐのを見届けて――恥ずかしくなったのか、頬がほんのり赤い――缶コーヒーで乾杯した。レイは俺やルナたちの近況を知りたがっていたし、俺はレイが何をしているのかを聞きたかった。
「今は、この地域で教師の真似事をしたり、養護施設の手伝いをしている。あと、戦争のことを自分なりにまとめている最中だ。いつ完成するか分からんが」
「……完成したら一番に見せてくれる?」
「プロの手を入れてもらってから見せたい」
「それじゃあ意味ないよ。レイの言葉、いくつ削られるか分からないし」
そう食い下がるな、と微笑する親友は、確約はできなくても、完成を目指してくれるだろうな、と思う。俺に何かをさせたがる言い方をしない限り、生きていこうと思っているはずだから。
今度はルナと二人で会いに来たい。見舞いなんかじゃなく、レイの住居に突撃して、コペルニクスを観光したりして、今度こそ花見をしよう。ルナに弁当作ってもらって、レジャーシートを広げて。我ながら良い計画だろう?